忘れたくないこと

1週間区切りの日記をあげています。

〈読んだ本〉大事なものは見えにくい《上・下》鷲田清一

死の経験というのは、じぶんを思いの宛先をしてくれていた他者がいなくなるということの経験、そう、喪失の経験なのだ、と。わたしをその思いの宛先としていた二人称の他者の死は、わたしのなかにある空白をつくりだす。以後、わたしの思いはいつも「宛先不明」の付箋をつけて戻ってくるしかない。その意味で、その時わたしもまた死んでしまう……。この意味で、死の経験は「二人称の死」を基本とする。

鷲田清一,大事なものは見えにくい《上》,社会福祉法人埼玉福祉会,2017)

 

f:id:agoagonunanuna:20200716162810j:image

 

わたしが今のところ一番死にたかった2019年3月、自分が死ぬ瞬間のことより具体的に思い描いていたのは、わたしの死後にベッドで寝込み続ける母の姿でした。死へと向かう行動こそしませんでしたが、いつも思いとどまらせたのはわたしの中で想像された母の感情でした。

反対に、死ねば父の元へ行けるだとか、父が悲しむだろうとかそういうことは考えませんでした。そもそも死後の世界について改めて考えてみると、「空からいつも見守ってくれている」なんてそんなつまらなくやるせない時間の過ごし方があってたまるかと思いませんか。

ただボーッとテレビを見て過ごすような、その画面の向こうでは大切な人たちがどんな目に遭おうと助けてあげられなくて、どんなに喜ばしいことがあろうと分かち合うことができない、これ以上の地獄がありますか。そう思うと、見守ってくれなくていいから生まれ変わるなり何なりしてもらって、こちらを忘れて幸せにお過ごしくださいと願うわけです、わたしは。

ちょっと妄想してみましたが、死後の世界があって、そこで現世のような営みが繰り返されていたら面白いかもしれません。こちらの世界の歯車に乗り切れずに死にたがっていたわたしが、死後の世界にも社会がありそこに馴染む設定で空想を広げるなんて、懲りて無いというか想像力がないというか悲しくなりますね。

そこで父は新しく出会った方と結婚でもしているんじゃないでしょうか。死後の世界で「産まれる」とは?と思ってしまうけど一旦置いて、子どももいるんじゃないでしょうか。そこにわたしが「生前この人の娘だったのでわたしも家族に入れてください」と割って入っていく?子どもに「わたしは今25歳の姿形をしているけどこの世界に来たばかりだから妹だと思って」もしくは「この世界にはきたばかりだけどあっちの世界では25歳だったからお姉ちゃんね」とか言うのか?

まず、10歳から止まっている父との時間をこの歳になってまた上手に動かせるとは思えません。切ないけれど、血がつながっていて、特別な思い出と思い入れのある他人のようなものでしょう。ここで妄想は終わりです。

広く静かな湖を見下ろすと、たまに息継ぎのために浮かび上がる「死にたさ」と言う怪物と目が合います。まだいつでもわたしの命を狙っているように伺えます。今のところ奴の最大の敵であり協力者は、わたしの母でしょう。母への思いが「宛先不明」の付箋を貼られて返ってくる時、わたしの心臓は奴にありありと晒され、奴に手を引かれあっけなく湖の底へ沈むために歩き出すかもしれませんね。

 

ーーーーー

 

哲学者である著者の頭の中を覗かせてもらっているような感覚で、初めは「ちょっと小難しい日記を見ている」感覚ですらすらとは読めませんでした。化粧に関するあたりで「うげっ」と思ってしまってからは、逆に「おじさんいいこと言うね」くらいのフランクな気持ちで読むことができて、心に染みるみたいなことはなかったけど面白いなあと思って読みました。

引用の書き方もわからんしこんなんでいいかな。